1 専門性と哲学
「専門性と哲学」と書くといかめしくきこえますが、ようするに研究者は自分の研究分野、専門分野があり、進化論をなしえてもそれが(あ日常生活も)自分の専門の結果に影響を受けざるを得ないということです。つまり「はじめに(進化の話のまえに)」でも触れたように、この専門性と哲学(考え方)とが進化論に重要な影響を与えているということです。これは進化論に限ったことではなく科学一般において研究者が研究成果をまとめ体系化し新しい説を打ち立てようとするときにたいせつな要素となり、学説に反映するのです。
なぜなら、まず専門による研究成果は各学者の苦労の成果でもあり自信となり、何ごとに寄らずこれに依拠して考える傾向があるためです。つぎにここで言う哲学とは、思考方法や視点であり、研究成果を論理的、系統的、体系的に整理する方法、仕方です。よって学説には当然これらが反映されるのが道理、というわけです。
僭越ながら私の少ない経験からいうと、古生物にも対象となる生物ごと、研究手段ごとに専門性があって、たとえばある哺乳類の種類の専門家が他の動物を見分けることが出来ても、それはその道の専門家までのレベルに達していないようだ、と感じることがままあります。私の専門である解剖学では、「マクロからミクロまで」理解できるのが目標で、身体の微細な細胞(ミクロ)から神経や血管の分布など(マクロ)まで学び十年で一人前、といわれます(俗に、メス研ぎ3年、HE7年と言います。ちなみにHEというのは細胞などを観察するために用いる染色の方法です。観察できる標本ができるのに10年かかる、という解剖学分野の教訓です)。
しかし、現今では分子生物学、遺伝学などなどが急速に発展し、細胞の分野も専門が多岐になってきています。いきおい解剖学といえどもその一分野の研究者が他の分野をふかく理解するのは困難になっています。
進化学説はこのような困難を乗り越えて生物共通の普遍的法則を導かねばならないので、これが大きな問題といえるでしょう。
昨今の進化論を読むと、一分野に限られる(例えば遺伝学)か、膨大な本や論文を読破したように膨大な文献をのせています。その努力には頭の下がる思いです。しかし、いろいろな進化論を読むと、私の専門とする解剖学、あるいは歯学の記述には(詳細な点は除きますが)どうも表面的にしかなぞっていない、あるいは理解していないのではないかと思われる点が多々みえるのです。
この原因として考えられることは、ひとつには参考とする文献もそれぞれの研究者が発表したものでありその研究者の視点、考え方(哲学)が反映していることがあげられます。そして、理解する方も一定の専門分野からの視点から文献を理解しようとするのです。すくなくみても、このように二重の曲折を含んでいるのです。
膨大な文献を理解するのは(確かにその能力の凄さには感嘆するのですが)限界があります。ものすごい実力を持った研究者が10人いようと20人集まろうと、処理する文献の量はふえますが、生物全体の文献を網羅するというわけにはいきません。つまり文献を理解するには視点の問題や量の問題で限界があるということです。
そして、かりにある専門分野の理解ができたとしても生物全体をとれば、まえにも触れたように「大海の一滴」にも満たないのです。
このことを私自信の研究で説明します。
まず研究の専門は歯(特に哺乳類の歯)です。
歯の歴史は脊椎動物の歴史とほぼ同じ約1億年、生命の歴史は約40億年、空白時間が 39/40もあります。研究できた歯は約200種弱、発生は約30種弱、哺乳類だけでも約6500種、1/100にも満たないのです。ですから扱った研究対象は、生物全体から限りなく0にちかいといえます。
ここから進化を謂うには、残りの生物、それも厖大な量の生物をどのように捉えるか、が問題です。
それゆえに、繰り返しますが、第一に、進化論など未知の分野の領域を含む学説は、提唱者の専門性と哲学(考え方、視点)が強く反映することになるのです。これは、かのダーウィンの「自然淘汰(選択)」説も同様です。それは例外と考えられる事実を克服するためにいまでも様々な試みがなされていることでも理解できると思います。これを「法則の限界」と私は考えています。
第二に、学者による偏り(ブレ)を反省し、厖大な空白を埋めより普遍的な法則を導くためには、思考の科学である哲学を借用することになります。なにしろ哲学は、ヘーゲルのように宇宙まで考える学問なのです。
私の場合はより自然にそった発展性のある考え方、そして研究生活に入った当初から師匠の井尻さんにご指導していただいた「自然の弁証法」が身近にあり、これを利用したいと考えました(哲学を網羅すること私の能力ではまず無理なこと、そして何よりも自然という言葉にひかれた、というのが本心です)。
これは、エンゲルスのというだけではなく、自然に沿って考えるということでもあり、生物の範疇をこえ、地球、宇宙そして物質界との普遍性を検討すると言うことにもつながります。